2018年10月30日火曜日

「ハナサクモリの冒険」ひとまず終了

「ハナサクモリの冒険」(10/25~30)が終わった。
太田川学園に生活する7人の作家たちの 過去7年と 一部それ以前の作品と 7年の間に生まれた作品と新たな作家を紹介するというものだった。

彼らとの出会いが 自分を新しい冒険に連れて行ってくれた。そんな7年の集大成。会場には 展示しきれない作品群たちも帯同して 観客には手に取って見てもらった。美術品としてでなく 1人の人間の成した結晶として 多くの鑑賞者に伝わったようだった。「キャプションが英語でしか記載されていなかったために “読み取る”という努力が必然的に起こる仕掛けが 作品を鑑賞する上での装置として機能していた。」という旨の感想を述べられた方がいて その方の鑑賞する態度に感激した。

(残念ながら)私はなるべく“福祉”とか “福祉に携わる者”という立場から遠ざかりたい もしくは距離を置きたいと思い(願い)つつ 実際には施設職員であるため 現実もある程度理解していて どんなに個人が理想を高め 実現を果たしていったとしても 全体としてそれが常識となるには途方も無い時間と労力を必要とするだろうし いまのままではきっとその日は来ないだろう。
それでもこの作品展が こうして開催にこぎつけたのは きっとなるべくしてなる原因があったのだと想う。それほど彼らの作品はどれもエネルギーに満ち 私達に問いを突きつけることとなった。すべては 彼らの作品に込めた想いだ。私達には決定的な誤解があって 彼らは天才だからできるのだと思い込んでいる。たとえ天才であったとしても 彼らが抱える試練は計り知れない。彼らが作品を生み出すまでの過程を私達は知らない。作品にとりかかるまでの葛藤を知らない。
彼らの最も身近な存在である福祉の現場は 正に葛や藤の如くもつれ絡み合っている。福祉の現場の中で生活する彼らが それを感じないわけがないし あるいは より強い主張を持って訴えているわけだから 私達も肚を決め 正直かつ知性を持って接するべきなのだろうと想う。彼らが千差万別の存在であるように 職員1人1人も千差万別で 1人1人が自己と向き合う必要があるだろう。みんながみんな そうなれるわけはない。気付きを得た誰かが 根となり幹となっていく必要があるだろう。これはもしかしたら犠牲と感じるかもしれないが 千差万別 それぞれに感じ方も異なるだろう。

会場では 観るべき人が観た という印象だった。観るべき人が 門をくぐり抜け対面を果たしていた。単に面白がる人 自分に重ね合わせる人 教えを請う人 ただただ体感する人 意を読み取る人。誰もが作品の前で饒舌になり 感情を表して 共感する喜びに浸っていた。千差万別の孤独な魂達が響き合っていた。来場した作家本人達にも ストレスはまるで感じられなかった。私達が彼らと交換しあうべき物を 恐らくこの作品展では成し遂げたのだと感じた。



私は元々 華道家だった。その前は花屋と呼ばれていて その前は何者でもなかった。
生まれる前は目にも見えず ただ生まれるための競争の中にいた。
そんな極小の叫びを呼び覚まされるような偉大な演説の渦の中にいたのだった。
彼らは花のように私の罪を受け入れ 作品という器の中に咲き誇っていた。
それは 到底 私の想像に及ばない領域で咲き誇っていて きっと それは彼らにだってわからない次元にあって まんまとそれを独り占めした私は なんと贅沢な花々の海に漂っていたのだろうと想いを巡らせながら美味い酒を飲んでいる。





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