2011年11月6日日曜日

『明るい夜』

あかるいよるをゆく。


明るい夜を行く。


少しずつ。


少しずつ、
灯りは点る。
どこからともなく。


灯りは声。
声が点って、道照らし。

声は重なり、音となり、
賑やかなりし草叢を、
棒で突きつつ進み行けば、
彼方にぼぅっ、と霧が待つ。
我はイズコぞ、漆黒の、
折り重なりの闇に立つ。





















2011年11月5日土曜日

『花から立ち上がる舞踏 3』

2003年。

とにかく一年駆け抜けた。

とにかく抱えてる自分を何とかしたかった。

とにかく信じてる自分を何とかしてあげたかった。



八年経ったいまも日々、変わらず思うことだ。
毎日毎日、自分を想う。



自分が持つ子のことを想う。
自分が共に生きていく人のことを想う。



大野さんがもし、
眼にした死から立ち昇る舞踏ならば、
ぼくは、いま眼の前にある、
花々から立ち上がる舞踏だ。



なんてことを徒然しつつ自分の仕事に帰る。





















『花から立ち上がる舞踏 2』

2003年1月。
彼ら(うち一人とはもうしばらく音信不通だが)との出会いをきっかけに、ぼくをとりまく環境は変化していく。

当時、ぼくは東京の谷中に住もうとしているところだった。
それはそれまで住んでいた姉が妊娠したからである。

空いた部屋でひとり、東京にしてはなんと刺激の少ない街なのか。と、感じていた。

谷中と言っても商店街からは少し離れており、近所にコンビニのある便利だが好みではない雰囲気だった。

彼ら、のうちのひとりである彼女は、洋品店を始めるのだ。とか。
その候補地として谷中があるのだ。とか。
このとき、自分は、随分と愛想良く会話していたつもりだったのだが、
どうやら、自分は、人より二倍も三倍も愛想良く振舞わなければならない人種なのだ。と知った。

この彼女の開いた青空洋品店は、突風の如く谷中の町を席巻し、今現在の町の隆盛の礎の一端を担うこととなった。



このとき、自分にこうした出会いを齎したツキヂマンソンなる建物。
それから数年もしないうちに取り壊されたのだとか。。。

とても魅力的な一時の夢(現実)をありがとよ。。。



そして、谷中。夢(現実)はつづく。
2003年1月~の谷中周辺での生活もまた、自分の基礎の大部分を占めるものとなっている。

この年の夏。
自分にとって、大きな転機を迎えることとなったのは、そうした多くの作家たちとの出会いの中に、現在も生活を共にする“お菓子のハトリ”との運命的な出会いに恵まれたことである。

彼女は、青空洋品店の主の親友で、姓を同じく羽鳥といったので、紹介というわけではなかったが、毎晩のように青空洋品店に顔を出すうちに知り合った。
知り合うという言葉では生ぬるい、電撃的な出会いだった。

一目で恋に落ち、来る日も来るも彼女のことを考えていた。

ときを同じくして、
ぼくは、自分の“いけばな”を始めるための準備をしていた。

“ライヴであること”。これが原則だった。

既存のいけばなにはない、より視覚的に花が動く(というか動かされる)“いけばな”だ。

当然、既存のいけばなの美しさとは比較の出来ない、されない手段。

いわゆる「いけばな」もライヴであることには変わりは無い。
けれども誰が観ても“ライヴ”であって、「なんだ?これ?」と、言われなければならなかった。

まず、手始めに、新宿のバーで、自分の下手糞な絵を貼り付けた展示を開いた。

下手糞だけれど、渾身だから忘れられない絵だ。
わかるやつは不愉快になる絵だ。

とにかく、ぼくのやり方は正しかったのだと思う。

とにかく必死だったから。
























『花から立ち上がる舞踏』

2003年4月
姉に娘が産まれたことは大きなきっかけとなった。

現在、彼女は、八歳になり、都内の小学校に通っている。
毎朝、朝早く埼玉の家を出て、東京の西の方まで出かけていく。

自分も高校を都内に選んだので、彼女と同じように毎朝、冬ならば暗い中、通学していたのを思い出す。
彼女も、ぼくや姉と同じくヴァイオリンを習っていて、きっと、ぼくらよりも才能と環境に恵まれていることだろう。
思えば、我が母は我が母ながら、ガッツの塊というか、欲張りな人なんだと思う。

我侭に欲を張り続けてきたんだ。

最近は喘息が止まらず苦しそうだけれど、
一緒に暮らせるようになるまでは元気でいてほしい。
その後、へばっても一緒にいられる。



この2003年という年は、
年明けからさまざまな巡り合わせがあった。

当時の自分は、とにかく日々、沸々と悶々としていた。

花屋になり、六年近くを経て、そろそろ自分がステージに登るんだ。とギラギラしていた。

そんな中、「いけばなライブの黒子をやらないか?」と声をかけられた。
ぼくは二つ返事。馬喰横山に当時あった、かつて旅館だったという建物へ。
いまをときめくPiupiruとかがいたりして、そんなこと何も知らない自分にとっては、なんでもないものだった。
そして、「これはなんていう花?」「あかまんさく」。
ここから物語りは加速していく。


























『華道』

“華道”。

自分が選んだ生きる道です。

自分が選んだ最善の、理想の生きる道です。



既存の流派に属さないのは、一から立ち上げたいためです。

それは、基本となる芯から立ち上げねばなりません。

いままでにあらゆるものを取り入れ、あらゆる他の表現者と接し、
それは、これからも続いていくことでしょう。

三月に広島に移り住んでからというもの、
これは自分に与えられた余暇のような、自己に集中する為の期間のように思え、
日々、自分と向き合っています。

映し鏡となってくれている障害者と言われる方たち、そして太田川のせせらぎ、
そんな広島の風景たちは、自分に何を問いかけているのでしょうか。

半年が経過するまでの間、頭も心も感情が支配し、
そんななか、訪れたハンブルクという街では、満足のゆくパフォーマンスは叶わず、
これは、来年に持ち越すこととなり、けれども、まだ、機会を与えられていることに感謝。

来年は、職人らしく汚名を晴らし、本来の自分を披露します。



それまで、基本に忠実に日々を昇華してゆきます。
赴くままに。