2003年1月。
彼ら(うち一人とはもうしばらく音信不通だが)との出会いをきっかけに、ぼくをとりまく環境は変化していく。
当時、ぼくは東京の谷中に住もうとしているところだった。
それはそれまで住んでいた姉が妊娠したからである。
空いた部屋でひとり、東京にしてはなんと刺激の少ない街なのか。と、感じていた。
谷中と言っても商店街からは少し離れており、近所にコンビニのある便利だが好みではない雰囲気だった。
彼ら、のうちのひとりである彼女は、洋品店を始めるのだ。とか。
その候補地として谷中があるのだ。とか。
このとき、自分は、随分と愛想良く会話していたつもりだったのだが、
どうやら、自分は、人より二倍も三倍も愛想良く振舞わなければならない人種なのだ。と知った。
この彼女の開いた青空洋品店は、突風の如く谷中の町を席巻し、今現在の町の隆盛の礎の一端を担うこととなった。
このとき、自分にこうした出会いを齎したツキヂマンソンなる建物。
それから数年もしないうちに取り壊されたのだとか。。。
とても魅力的な一時の夢(現実)をありがとよ。。。
そして、谷中。夢(現実)はつづく。
2003年1月~の谷中周辺での生活もまた、自分の基礎の大部分を占めるものとなっている。
この年の夏。
自分にとって、大きな転機を迎えることとなったのは、そうした多くの作家たちとの出会いの中に、現在も生活を共にする“お菓子のハトリ”との運命的な出会いに恵まれたことである。
彼女は、青空洋品店の主の親友で、姓を同じく羽鳥といったので、紹介というわけではなかったが、毎晩のように青空洋品店に顔を出すうちに知り合った。
知り合うという言葉では生ぬるい、電撃的な出会いだった。
一目で恋に落ち、来る日も来るも彼女のことを考えていた。
ときを同じくして、
ぼくは、自分の“いけばな”を始めるための準備をしていた。
“ライヴであること”。これが原則だった。
既存のいけばなにはない、より視覚的に花が動く(というか動かされる)“いけばな”だ。
当然、既存のいけばなの美しさとは比較の出来ない、されない手段。
いわゆる「いけばな」もライヴであることには変わりは無い。
けれども誰が観ても“ライヴ”であって、「なんだ?これ?」と、言われなければならなかった。
まず、手始めに、新宿のバーで、自分の下手糞な絵を貼り付けた展示を開いた。
下手糞だけれど、渾身だから忘れられない絵だ。
わかるやつは不愉快になる絵だ。
とにかく、ぼくのやり方は正しかったのだと思う。
とにかく必死だったから。
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