2018年10月6日土曜日

“思い”

10月25日(木)から30日(火)までの「ハナサクモリの冒険」@ぎゃらりぃ宮郷について 案内をさせていただいた方たちからたくさんの反響があった。

地域の方々 職場のみんな 友人知人 家族 マスコミ関係者 身近なスタッフ。“ハナサクモリ”の注目度は 自分が思うよりずっと 大きなものなんだな。
そりゃ 関わる人間の多さもあるかもしれない。取り上げられている作家たちとその背景もあるかもしれない。昨今のアール・ブリュット・ブームもあるかもしれない。
人間の数も 特異な環境の人に対する関心も やがて(すでに)過ぎ去る(った)流行もさておき ぼくは 自ら命名した“ハナサクモリ”に興味が尽きない。
周辺の人たちには 「いつやめるかわからない」「これからはみんながやればいい」などと言いながら 実は常に興味をそそられて 仕事を辞められないでいる。
それは1つには 自分の代わりに成功していく彼ら“ハナサクモリ”の作家たちのおかげで 自分もちょっと成功した気分を味わって それもそれで楽しんでいるのかもしれない。
その一方で 純粋にプロデュースについて学んでいっている気がする。たぶん 彼らに出会わなければ 真面目にアートについて学ぼうなんて思わなかったかもしれないし 第一 マスコミに取り上げられるなんて 絶対に嫌悪したと思う。彼らは評価されようがされまいが気にしないし 評価されたらされたで素直に喜べるし ぼくなんかより人としてできているからいいのだ。

ぼくが 7年前 初めて彼らの作品に出会ったとき 感じたことについて 他人が誤解していると感じたり 身近な人に限ってその感動が急速に冷めていったりする様を見て 我が身を振り返り やり続けなきゃと感じているのだろう。その先の長さを思い たぶん ときどき長くやるつもりはないよ と言いたくなるのだろう。ほんとに長いな 先を見たら。でも いつ死ぬかわからないだろ?と もう1人のぼくが言う。そう だから目の前の仕事を淡々とやっている。やりたいとか やりたくないとか 好きとか 嫌いとか もう そういう感じじゃない。

19歳で花屋になって それから11年 似たような感じで生きてきた。周りは花が好きなんだね と言うが あまり実感がなかった。花屋を辞め 広島に移り 金が無くても やれない仕事はやっぱりやれなくて だから いまの仕事はやれる仕事なんだろう としか言えない。口では何とでも言えるのだけど 核心としては こんな感じがたぶん ぼくのいまの仕事に対する“思い”なんだと思ったのだ。

ところで (これは酒を飲みながら書いているものなので 文章として成立していなくて良いのだけれど)先に書いたプロデュースすることについて ぼくは最も学びたいと思っているのだ と思う。それは 最も納得のいく死と死後に連なっているのでは?と思ったりしている。100年か1000年後か もっと先かわからない。ぼくをどうみてもらいたいか どう感じてもらいたいか どんなことを思ってほしいか。そんな誰か(または生まれ変わった自分)に出会いたい。なんて思っている。

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