2011年10月23日日曜日
2011年10月20日木曜日
『星を見る人』
きょうのきょうまで、
ぼくはなんでもいい。
とにかくやるんだ。
そう思ってやってきた。
なんでもよかったわけじゃない。
いろいろなことを思っていた。
思考の波に飲まれそうになりながら、
直感だけが頼りだった。
ただ、
それが、自然、変化していっている。
それくらい、
ぼくだけじゃなく、
きっと同じように、
多くの人たちにとっても、
衝撃だったろう。
ぼくは、頭の中が真っ白になって、
とにかく「西へ」という気持ちだった。
ばあちゃんが、生まれ育ったあの場所がもうない。
「何もかも終わった」
そんな気持ちだった。
辛いし、
疲れる。
でも忘れてはならない。
みんなに課せられたに違いない。
いや、課していることを忘れるな。
と、
思い知らされた。
『ホシトヒト』
毎晩、
寝る前に星を眺めている。
目の前にあるものと遠く見据えるものとが、
一直線に繋がっているのが見える。
そもそも、自分の今までの道のりと、
事ある毎に思い知らされる、あらゆるもの。
別に具体的に説明する必要なんかない。
すべてが、
王への道のりだ。
道筋が成功に満ちている。
岬の突端に立ち、
海を見下ろす。
いつものあの場面。
あとは飛ぶだけ
2011年10月19日水曜日
『答えはここにある』
文章にすることは、ぼくにはとてもむつかしいことです。
ぼくは、なるべくなら必要以上に人と会話もしたくありませんし、
あまり人に自分を知られたくありません。
説明を求められることも苦手です。
自分を閉ざすことに慣れていくと、だんだん自分が何だったのか?わからなくなります。
様々な自閉症と診断される人々と接していると、
自分に重ね合わせてしまい、疲れることもあります。
けれど、
毎日毎日接することで、だんだんと輪郭が掴めてきました。
再三の警告を無視して、今更のように、ぼくは日々が楽しいです。
かたや楽しいばかりでなく、地球が気がかりです。
でも、
せめて、ぼくくらい楽しくてもいい。
地球のためにも、ぼくくらい楽しくなくては。
2011年10月18日火曜日
『忘れじの海』
植物が燃え盛る海
こどもの頃に当たり前にあった風景
ぼくの生まれ育ったところにはもうない
人が人らしく暮らす為に
土地は平らで家がなければならない
夏には涼しい風が吹き出して
冬には暖かな風が溢れなきゃならない
だけどぼくが生まれる前
おじいちゃんやおばあちゃん
そのおじいちゃんやおばあちゃんは
どんなこと思ってたろう
いつもどんなときも希望に溢れ
色んなものを捨てただろう
捨てなきゃ前に進めないなら
捨てずに居座ることもあったろう
迷った挙句捨てたとしても
大切なものだけは受け継いでいまがある
それは目に見えるものもあれば
目に見えないものもあるだろう
両方あったとしても
ぼくは目に見えないもの
言葉には決してできないもの
そういうものを信じている
だから成功してきた
失敗の山を築いていけば
おのずと成功に繋がっている
ぼくはほんとうにいい友達に恵まれ
家族に支えられている
ぼくは大野一雄のようになりたい
あんなふうに自然に生命を呼び寄せる大樹のように
それにはまだまだ失敗を築き上げなければならないな
と
燃え盛る海を見て思ったのでした
国王
2011年10月17日月曜日
『羽鳥王国の王より』
母親は心配していました。
他の誰かに、ぼくを紹介する度に「いえ、自閉症というわけではないのですが・・・。」と、言った風に。
ぼくは、ぼくで割と深く傷ついていて、それは、自分に息子に恵まれるまで影響を及ぼしていました。
何より、母親が、自分の“何か”を恥じている。ということが、悲しかったです。
それでも、
母は、ぼくの他の“何か”を誇りに思っているのだ。ということだけは、わかっていました。
表裏一体のその“何か”を引き出そう。と、最大限の努力を自分に捧げてくれました。
現在、自分が施設に関わり、障害者たちから“何か”を引き出す。という仕事に従事しているのは、その為でしょう。
きっと、ぼくが、施設に出現したために、傷ついている方もおられることでしょうが、どうしても気になって、ぼくは、いちいち利用者(障害者)に限られず、“接近”してしまうのです。
“似たもの同士”なのです。
“似たもの同士”、仲良くなりたいのです。
ところで、
世界を放射能の脅威が、覆い尽くす現代。
もう、後にも先にもなく、絶望的ではありますが、
明るく前向きに生きて行きたいものです。
明るく前向きに闘っていかなくては。
かねて、
ぼくは、ぼくの国が欲しいんだ。と、周囲の人たちには吹聴してきたのですが、
まさか、こういったカタチでそれが促されるとは神のみぞ成せる業。
とはいえ、少数の人々が叫んできた問題が、やがてこうして取り返しのつかない事態になるという筋は、散々、おとぎばなしの中で語られてきたことでもありますから、当然、想定はされ、そして、一部の人間を除いては、皆、己の不甲斐なさを恥じたことでありましょう。
ぼく自身も、特別、問題意識があったわけでもありませんし、一事が万事、直感で解決してきたような人間ですから、似たようなものです。
どこで始めるのか?
いつから真剣にやるのか?
神様はそれしか言ってないようにも思える。
思いっきり、人間を堪能しているか?
と。
思いっきり生きるのは気持ちいいから。
他の誰かに、ぼくを紹介する度に「いえ、自閉症というわけではないのですが・・・。」と、言った風に。
ぼくは、ぼくで割と深く傷ついていて、それは、自分に息子に恵まれるまで影響を及ぼしていました。
何より、母親が、自分の“何か”を恥じている。ということが、悲しかったです。
それでも、
母は、ぼくの他の“何か”を誇りに思っているのだ。ということだけは、わかっていました。
表裏一体のその“何か”を引き出そう。と、最大限の努力を自分に捧げてくれました。
現在、自分が施設に関わり、障害者たちから“何か”を引き出す。という仕事に従事しているのは、その為でしょう。
きっと、ぼくが、施設に出現したために、傷ついている方もおられることでしょうが、どうしても気になって、ぼくは、いちいち利用者(障害者)に限られず、“接近”してしまうのです。
“似たもの同士”なのです。
“似たもの同士”、仲良くなりたいのです。
ところで、
世界を放射能の脅威が、覆い尽くす現代。
もう、後にも先にもなく、絶望的ではありますが、
明るく前向きに生きて行きたいものです。
明るく前向きに闘っていかなくては。
かねて、
ぼくは、ぼくの国が欲しいんだ。と、周囲の人たちには吹聴してきたのですが、
まさか、こういったカタチでそれが促されるとは神のみぞ成せる業。
とはいえ、少数の人々が叫んできた問題が、やがてこうして取り返しのつかない事態になるという筋は、散々、おとぎばなしの中で語られてきたことでもありますから、当然、想定はされ、そして、一部の人間を除いては、皆、己の不甲斐なさを恥じたことでありましょう。
ぼく自身も、特別、問題意識があったわけでもありませんし、一事が万事、直感で解決してきたような人間ですから、似たようなものです。
どこで始めるのか?
いつから真剣にやるのか?
神様はそれしか言ってないようにも思える。
思いっきり、人間を堪能しているか?
と。
思いっきり生きるのは気持ちいいから。
『プロフィール』
〜プロフィール〜
羽鳥智裕
1978年7月26日水曜日
埼玉県桶川市の病院で産まれ、同上尾市で育つ。
現在は、東京から広島県山県郡北広島町(豊平地域)へ移住。
高校を卒業するまで、家族とロクに会話も出来ず、母親は心配していた。
小学校に上がる頃は、近所の田圃や雑木林が遊び場。常に一人だった。
きょう、息子とふたりドライブに出かけ、途中、ススキとアワダチソウの野原があって、なんだか懐かしい気分になった。
それは、自分が見てきたものとまるで同じではないけれど(上尾市にここまで背の高いススキや雑草はないから)、ぼくが、小さなころ見て育った木や稲の海がそこにだぶって見えた。
現在、働いている施設。
そこには、知的・精神的・身体的に障害を持っているとされる人々が、各棟にそれぞれ三〇~五〇人前後まで“段階的”に入所して(もしくは収容されて)いる。
皆、個性豊かな面々で、ぼくにとっては癒しの場所である。
当然、問答無用に傷つけたり、傷つけられたり、日常は平坦じゃない。
けれど、三月十五日まで過ごしてきた東京での暮らしよりも、比べようのない充実感に充ちている。
何故、あんなにも空虚な感覚が東京には充ち満ちているのか?
いま、こうしている間にも興味は尽きない。
きょうのドライブの目的地のひとつに、広島県安芸高田市にある“ひとは作業所”という施設があった。
ひとは作業所については、各々調べて頂くとして、自分の感想としてとにかくここにも快適な空気が充ち満ちていたのでした。
そこの園長?(責任者)の方の話しぶりから漂うものが、自分を安堵させ、そしてまた、“ぼくの夢”は、加速するのでした。
“ぼくの夢”。
息子は、初めてそうした環境に触れ、いままでに知らない波動を感じたのか、一言も発することはありませんでした。
けれども、ぼくは、いずれ、こうした“障害者”たち、子供たち、そしてその親たち、とともに暮らしてゆきたいな。とモソモソ妄想するのでした。
よく、同じ職場の方々から「こんな仕事に就いていて本業に差し支えはないのですか?」と、質問されるのですが、とんでもない!こんな素晴らしい芸の肥やしは他にそうそうありませんよ!!
羽鳥智裕
1978年7月26日水曜日
埼玉県桶川市の病院で産まれ、同上尾市で育つ。
現在は、東京から広島県山県郡北広島町(豊平地域)へ移住。
高校を卒業するまで、家族とロクに会話も出来ず、母親は心配していた。
小学校に上がる頃は、近所の田圃や雑木林が遊び場。常に一人だった。
きょう、息子とふたりドライブに出かけ、途中、ススキとアワダチソウの野原があって、なんだか懐かしい気分になった。
それは、自分が見てきたものとまるで同じではないけれど(上尾市にここまで背の高いススキや雑草はないから)、ぼくが、小さなころ見て育った木や稲の海がそこにだぶって見えた。
現在、働いている施設。
そこには、知的・精神的・身体的に障害を持っているとされる人々が、各棟にそれぞれ三〇~五〇人前後まで“段階的”に入所して(もしくは収容されて)いる。
皆、個性豊かな面々で、ぼくにとっては癒しの場所である。
当然、問答無用に傷つけたり、傷つけられたり、日常は平坦じゃない。
けれど、三月十五日まで過ごしてきた東京での暮らしよりも、比べようのない充実感に充ちている。
何故、あんなにも空虚な感覚が東京には充ち満ちているのか?
いま、こうしている間にも興味は尽きない。
きょうのドライブの目的地のひとつに、広島県安芸高田市にある“ひとは作業所”という施設があった。
ひとは作業所については、各々調べて頂くとして、自分の感想としてとにかくここにも快適な空気が充ち満ちていたのでした。
そこの園長?(責任者)の方の話しぶりから漂うものが、自分を安堵させ、そしてまた、“ぼくの夢”は、加速するのでした。
“ぼくの夢”。
息子は、初めてそうした環境に触れ、いままでに知らない波動を感じたのか、一言も発することはありませんでした。
けれども、ぼくは、いずれ、こうした“障害者”たち、子供たち、そしてその親たち、とともに暮らしてゆきたいな。とモソモソ妄想するのでした。
よく、同じ職場の方々から「こんな仕事に就いていて本業に差し支えはないのですか?」と、質問されるのですが、とんでもない!こんな素晴らしい芸の肥やしは他にそうそうありませんよ!!
2011年10月9日日曜日
デモとか
2011/06/13 03:05[下へ]
パフォーマンスとか
このところ体調も梅雨入りな感じですが
ボチボチやっていきます。
6/10
「ホシチカ」呼びかけ人でもある市大の湯浅さんのお宅にて
羽鳥智裕さんの華道パフォーマンス。
湯浅さんから「福島の土を活けてほしい」というリクエストに応えたものだそう。
という予備知識は無いまま仕事終わって開演ギリギリに到着。
お庭に吊した2枚のシーツ。
ドラム缶を縦半分に切って脚をつけた
あれって何て言うんだっけ?
バーベキューなんかに使う、火を燃やすの。
あれに火が入っている。
外は雨。
羽鳥さんは庭石の上に正座してまず深々と一礼。
やや横から見ていたせいもあり
伏した上体の下に肘から先が深くたたみ込まれる姿勢のため
肩から肘までしか見えない腕が
ふと腕を失った、もしくは先天的に欠損した身体に見えた。
「フクシマの土を」という予備知識無いまま
イマジネーションはフクシマへとつながっていく。
左側のシーツに墨で「山」の字。
ひょうたん型に描かれた「山」の字が
これも原子炉に見える。
幾度も重ねてそのひょうたん型が描かれていくうち
私には何か黒い魔物のように見える図柄となっていった。
続いて右のシーツ。
演後にうかがったところでは
水の流れをイメージしていたそうだが
墨で横に何本か線を引く
それが雨に濡れ風にはためくシーツのせいで
途切れ途切れの線となる。
線といっても筆ではなく腕を使って描いているので
ある程度の太さがあり
途切れ途切れになるため大きさのまばらな四角形が
ランダムに浮かび上がる状態になり
私には霧に煙る街の遠景と見えた。
そこに今度は円を描くように墨のしぶきを散らしていく。
煙たなびく廃墟に降る黒い雨。
そんな風に見えた。
それから火の上に、枯れたツタ、枯れ木、生花が活けられていく。
「活け」られていくのだが
燃やされるのだから同時に殺されているのだ。
生かされているのか殺されているのか。
フクシマに限らず、現代社会に生きている自分たちの
危うい生と重なってめまいを覚える。
しかし、そのようなメタファーとしてだけではなく
「死」を「正しく死なせる」、つまりは「葬る」「弔う」行為のようにも思われた。
「活け」られる花は、切り花であってそもそも「死んで」いる。
「死んだ」花を、あたかも生きているように見立てるのが「生け花」であろうが
それはどこまでも仮構である。
現実には花は「死んで」いるのだ。
水にさせば多少枯れずに保つだろうが
それは生命維持装置で生かされているが助かる見込みの無い病人のようなものだ。
火の上に「活け」られていく枯れ木と生花。
死ぬことも許されない死者を
その落ち着くべき「死」へと返してやること
「鎮魂」
その前に一瞬だけ、生きていた頃の面影を「今」に焼き付ける。
ところが
終盤、花は焼き尽くせないほどに一気にどかっと盛られてしまうのだ。
怖気が走った。
「死」を「死ぬ」ことのできない、溢れるほどに積み重なった「死者」。
「死屍累々」
という言葉が頭をかすめる。
そして羽鳥さんは再び一礼し
短く挨拶をしてパフォーマンスは終わる。
大半の観客はそこで「終わった」と歓談し、帰り支度を始める。
しかし、雨の中で花は燃え続けている。
「パフォーマンス」は終わったかもしれないが
作品はまだ「続いている」のだった。
私はある程度燃えていく様をその後も見続けた。
底の方で燃え尽きた枯れ木が崩れると
上に乗っかっている花や枯れ木が「ズルッ」とふいに蠢く。
「おれたちはまだ死んでいない」
「黙って死んでいくわけにはいかない」
そんな怨嗟の声を聞くようで身震いした。
震災前は東京で活動していた羽鳥さんだが
今後は広島の豊平に移住して活動を続けるそうだ。
今日はもうフランスに旅立っているはずだ。
翌11日。
震災から3ヶ月ということで
日本全国で100カ所以上の同時デモ。
東京新宿アルタ前には2万人が集結したそうだ。
それにくらべると広島のデモは少し人数が少なかった。
デモだけがアクションではないし
数だけが問題では無いだろうが
「ヒロシマ」の関心、アクションとしてはやはり寂しいかぎり。
沿道からの視線も冷たく感じられた。
大きなうねりを作るには
デモのやり方にもきっと問題があったように思われた。
4月のデモが結構人数が集まった
(と言ってもこの日の人数を考えると
県外から集まった人が多かったのだろうと推測される)
せいか、この日は警察の数も多く
デモ人数に比べるとものものしい警備だった。
周囲を警察に固められ
「デモ参加者の安全のため」という名目の
威圧的な拡声器での警告の中
仮に共感する人が沿道にいたとしても
途中から加わっていけるような雰囲気ではなかった。
個人的にはあまり気分の高まらないまま歩いていた。
夕方から、マツザッキン&メグミ夫妻、藤堂信行、中島由美子と
原爆ドーム対岸の河川敷でパフォーマンス。
タムラ・ド・ヒサシィといさじ章子さんも飛び入り。
小さいけれど自分たちに出来ること
自分たちにしかできないことを
これからも継続していくしかない。
あまりに事態は深刻かつ複雑化していて
正直、戸惑うことの方が多く
パフォーマンスするにしてもひとつのテーマにピントを合わせるようなことはできない。
だけど、やり方も受け止め方もいろいろだろうと思う。
あえて単純化して、「脱原発」「震災復興」をテーマにするのも
一つの向かい方だろうが
複雑なものを複雑なまま受け止めて戸惑いながら立ち尽くすしかない
そのような受け止め方もあっていい。
単純化・合理化は同時に「切り捨て」でもある。
どちらが正しい、ではなく
どちらも必要なのだ。
ただ、受け止めること自体を放棄して
感覚を麻痺させていくことが事態をさらに悪化させる。
広島市民というのは
65年間背負わされ続けた「ヒロシマ」の重みの中で
世界中の人たちが「ヒロシマ」に抱く希望とは相反して
すでに感覚を麻痺させてしまっているように見える。
広島の問題は「フクシマ」よりも
「ヒロシマ」とどう向き合い直すかが先決なのかもしれない。
すべてはこの場所から始まったことだ。
歴史上最初に原子爆弾が使用された場所。
しかし戦後のアメリカの影響下で
「広島の復興」は「核の惨禍からも容易に復興できる」という
ある意味核の恐怖を薄める役割さえ果たし
放射線被曝の恐ろしさを誰よりわかっているはずの広島が
「核の平和利用」というペテンを容認し続けて来たことが
地震列島に50基以上の原発を抱えるこの国の現状につながっている。
反核・平和の象徴としての広島は
同時に戦前の「軍都・廣島」をそのまま引きずり
「国策」の片棒を担ぎ続ける都市でもあるのだ。
極論の皮肉であることはことわっておくが
広島が被爆直後に言われたように
「100年は草木も生えない」
廃墟のままであったらどうだっただろう。
きっとこれほど原発が林立するようなキチガイじみた事態にはならなかったに違いない。
広島という都市の経済的繁栄は
皮肉にも「核の安全性」を裏付けることに利用されてきたし
同時に復興を願う広島市民にとっては
放射能のマイナスイメージは消し去らねばならないものでもあった。
「反核・平和都市」というのは観光イメージだけに留められてきた面があるだろう。
そんな「共犯関係」を、広島はもう一度考え直すべきだろうし
それをしないなら「反核・平和」の看板など下ろした方が良い。
そういえば、広島の平和資料館にある「地球平和監視時計」は
この5月27日に「米国が昨年11月18日と今年3月31日に新たな核実験を実施していた事態を受け」
「直近の核実験からの日数を示す「地球平和監視時計」をリセットした。」
そうだ。
今も福島で原発が燃え続け
多くの人が被曝し続けているさなかに
なんとも呑気なハナシに思えてならない。
平和資料館は「ふくいちライヴカメラ」だけでも流したらどうなのだ。
自国の招いた未曾有の原発事故を
世界中から来る人たちに伝えるべき使命があるのではないのか?
外国からの核攻撃ではなく
自国の原発「人災」事故によって
多くの被爆者を生み出してしまった今
「二度とヒバクシャを生まない」ことが悲願の「ヒロシマ」であるなら
平和公園の日の丸など降ろすべきではないのか?
2011/06/13 03:05[下へ]
パフォーマンスとか
このところ体調も梅雨入りな感じですが
ボチボチやっていきます。
6/10
「ホシチカ」呼びかけ人でもある市大の湯浅さんのお宅にて
羽鳥智裕さんの華道パフォーマンス。
湯浅さんから「福島の土を活けてほしい」というリクエストに応えたものだそう。
という予備知識は無いまま仕事終わって開演ギリギリに到着。
お庭に吊した2枚のシーツ。
ドラム缶を縦半分に切って脚をつけた
あれって何て言うんだっけ?
バーベキューなんかに使う、火を燃やすの。
あれに火が入っている。
外は雨。
羽鳥さんは庭石の上に正座してまず深々と一礼。
やや横から見ていたせいもあり
伏した上体の下に肘から先が深くたたみ込まれる姿勢のため
肩から肘までしか見えない腕が
ふと腕を失った、もしくは先天的に欠損した身体に見えた。
「フクシマの土を」という予備知識無いまま
イマジネーションはフクシマへとつながっていく。
左側のシーツに墨で「山」の字。
ひょうたん型に描かれた「山」の字が
これも原子炉に見える。
幾度も重ねてそのひょうたん型が描かれていくうち
私には何か黒い魔物のように見える図柄となっていった。
続いて右のシーツ。
演後にうかがったところでは
水の流れをイメージしていたそうだが
墨で横に何本か線を引く
それが雨に濡れ風にはためくシーツのせいで
途切れ途切れの線となる。
線といっても筆ではなく腕を使って描いているので
ある程度の太さがあり
途切れ途切れになるため大きさのまばらな四角形が
ランダムに浮かび上がる状態になり
私には霧に煙る街の遠景と見えた。
そこに今度は円を描くように墨のしぶきを散らしていく。
煙たなびく廃墟に降る黒い雨。
そんな風に見えた。
それから火の上に、枯れたツタ、枯れ木、生花が活けられていく。
「活け」られていくのだが
燃やされるのだから同時に殺されているのだ。
生かされているのか殺されているのか。
フクシマに限らず、現代社会に生きている自分たちの
危うい生と重なってめまいを覚える。
しかし、そのようなメタファーとしてだけではなく
「死」を「正しく死なせる」、つまりは「葬る」「弔う」行為のようにも思われた。
「活け」られる花は、切り花であってそもそも「死んで」いる。
「死んだ」花を、あたかも生きているように見立てるのが「生け花」であろうが
それはどこまでも仮構である。
現実には花は「死んで」いるのだ。
水にさせば多少枯れずに保つだろうが
それは生命維持装置で生かされているが助かる見込みの無い病人のようなものだ。
火の上に「活け」られていく枯れ木と生花。
死ぬことも許されない死者を
その落ち着くべき「死」へと返してやること
「鎮魂」
その前に一瞬だけ、生きていた頃の面影を「今」に焼き付ける。
ところが
終盤、花は焼き尽くせないほどに一気にどかっと盛られてしまうのだ。
怖気が走った。
「死」を「死ぬ」ことのできない、溢れるほどに積み重なった「死者」。
「死屍累々」
という言葉が頭をかすめる。
そして羽鳥さんは再び一礼し
短く挨拶をしてパフォーマンスは終わる。
大半の観客はそこで「終わった」と歓談し、帰り支度を始める。
しかし、雨の中で花は燃え続けている。
「パフォーマンス」は終わったかもしれないが
作品はまだ「続いている」のだった。
私はある程度燃えていく様をその後も見続けた。
底の方で燃え尽きた枯れ木が崩れると
上に乗っかっている花や枯れ木が「ズルッ」とふいに蠢く。
「おれたちはまだ死んでいない」
「黙って死んでいくわけにはいかない」
そんな怨嗟の声を聞くようで身震いした。
震災前は東京で活動していた羽鳥さんだが
今後は広島の豊平に移住して活動を続けるそうだ。
今日はもうフランスに旅立っているはずだ。
翌11日。
震災から3ヶ月ということで
日本全国で100カ所以上の同時デモ。
東京新宿アルタ前には2万人が集結したそうだ。
それにくらべると広島のデモは少し人数が少なかった。
デモだけがアクションではないし
数だけが問題では無いだろうが
「ヒロシマ」の関心、アクションとしてはやはり寂しいかぎり。
沿道からの視線も冷たく感じられた。
大きなうねりを作るには
デモのやり方にもきっと問題があったように思われた。
4月のデモが結構人数が集まった
(と言ってもこの日の人数を考えると
県外から集まった人が多かったのだろうと推測される)
せいか、この日は警察の数も多く
デモ人数に比べるとものものしい警備だった。
周囲を警察に固められ
「デモ参加者の安全のため」という名目の
威圧的な拡声器での警告の中
仮に共感する人が沿道にいたとしても
途中から加わっていけるような雰囲気ではなかった。
個人的にはあまり気分の高まらないまま歩いていた。
夕方から、マツザッキン&メグミ夫妻、藤堂信行、中島由美子と
原爆ドーム対岸の河川敷でパフォーマンス。
タムラ・ド・ヒサシィといさじ章子さんも飛び入り。
小さいけれど自分たちに出来ること
自分たちにしかできないことを
これからも継続していくしかない。
あまりに事態は深刻かつ複雑化していて
正直、戸惑うことの方が多く
パフォーマンスするにしてもひとつのテーマにピントを合わせるようなことはできない。
だけど、やり方も受け止め方もいろいろだろうと思う。
あえて単純化して、「脱原発」「震災復興」をテーマにするのも
一つの向かい方だろうが
複雑なものを複雑なまま受け止めて戸惑いながら立ち尽くすしかない
そのような受け止め方もあっていい。
単純化・合理化は同時に「切り捨て」でもある。
どちらが正しい、ではなく
どちらも必要なのだ。
ただ、受け止めること自体を放棄して
感覚を麻痺させていくことが事態をさらに悪化させる。
広島市民というのは
65年間背負わされ続けた「ヒロシマ」の重みの中で
世界中の人たちが「ヒロシマ」に抱く希望とは相反して
すでに感覚を麻痺させてしまっているように見える。
広島の問題は「フクシマ」よりも
「ヒロシマ」とどう向き合い直すかが先決なのかもしれない。
すべてはこの場所から始まったことだ。
歴史上最初に原子爆弾が使用された場所。
しかし戦後のアメリカの影響下で
「広島の復興」は「核の惨禍からも容易に復興できる」という
ある意味核の恐怖を薄める役割さえ果たし
放射線被曝の恐ろしさを誰よりわかっているはずの広島が
「核の平和利用」というペテンを容認し続けて来たことが
地震列島に50基以上の原発を抱えるこの国の現状につながっている。
反核・平和の象徴としての広島は
同時に戦前の「軍都・廣島」をそのまま引きずり
「国策」の片棒を担ぎ続ける都市でもあるのだ。
極論の皮肉であることはことわっておくが
広島が被爆直後に言われたように
「100年は草木も生えない」
廃墟のままであったらどうだっただろう。
きっとこれほど原発が林立するようなキチガイじみた事態にはならなかったに違いない。
広島という都市の経済的繁栄は
皮肉にも「核の安全性」を裏付けることに利用されてきたし
同時に復興を願う広島市民にとっては
放射能のマイナスイメージは消し去らねばならないものでもあった。
「反核・平和都市」というのは観光イメージだけに留められてきた面があるだろう。
そんな「共犯関係」を、広島はもう一度考え直すべきだろうし
それをしないなら「反核・平和」の看板など下ろした方が良い。
そういえば、広島の平和資料館にある「地球平和監視時計」は
この5月27日に「米国が昨年11月18日と今年3月31日に新たな核実験を実施していた事態を受け」
「直近の核実験からの日数を示す「地球平和監視時計」をリセットした。」
そうだ。
今も福島で原発が燃え続け
多くの人が被曝し続けているさなかに
なんとも呑気なハナシに思えてならない。
平和資料館は「ふくいちライヴカメラ」だけでも流したらどうなのだ。
自国の招いた未曾有の原発事故を
世界中から来る人たちに伝えるべき使命があるのではないのか?
外国からの核攻撃ではなく
自国の原発「人災」事故によって
多くの被爆者を生み出してしまった今
「二度とヒバクシャを生まない」ことが悲願の「ヒロシマ」であるなら
平和公園の日の丸など降ろすべきではないのか?
2011年10月7日金曜日
『ホロビル マタタク』
日曜日の夜
『ホロビル マタタク』
は、
自殺者が飛び降りた瞬間に見る光。
暗黒に突き抜けて初めて見る光。
火種が水に飛び込む瞬間。
彗星たちが太陽の熱に触れる(た)瞬間。
滅びて瞬く瞬間。
そんなものとか、
そんなものの先。
の出来事。
日曜日の夜の花たちは、
きっとだいぶくたびれていることでしょう。
そんな花たちのそんな日曜日の夜の瞬きに思いを馳せる会。でしょうか。
2011.10/09 日曜日
はすとばら ニテ
羽鳥智裕・花の会
『ホロビル マタタク』
18:00〜開場
150-0043
東京都 渋谷区
道玄坂1-16-8
常磐ビル2F
入場1,000円(お花代)
『ホロビル マタタク』
は、
自殺者が飛び降りた瞬間に見る光。
暗黒に突き抜けて初めて見る光。
火種が水に飛び込む瞬間。
彗星たちが太陽の熱に触れる(た)瞬間。
滅びて瞬く瞬間。
そんなものとか、
そんなものの先。
の出来事。
日曜日の夜の花たちは、
きっとだいぶくたびれていることでしょう。
そんな花たちのそんな日曜日の夜の瞬きに思いを馳せる会。でしょうか。
2011.10/09 日曜日
はすとばら ニテ
羽鳥智裕・花の会
『ホロビル マタタク』
18:00〜開場
150-0043
東京都 渋谷区
道玄坂1-16-8
常磐ビル2F
入場1,000円(お花代)
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